日頃の姿を知っていただこうという企画です。
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三善晃という人物には、何か得体のしれない「他人を惹きつける」ものがある。
というのが、今月18・19日に東京オペラシティコンサートホールにて行われた「三善晃作品展」とその本番に向けて三善の作品を練習してきた私の感想を端的に表しているものである。
我々千葉大学合唱団は、常任指揮者である栗山文昭先生の受け持つ栗友会合唱団としてこの三善作品展に参加し、「混声・童声合唱とピアノのための『島根のわらべ歌』」
を同じく栗友会に入る宇都宮大学混声合唱団と、少年少女合唱団であるむさし野ジュニア合唱団"風"と演奏し、また「であい」を栗友会合同合唱団として大規模な合唱を演奏した。
話をもどそう。
ところで 私の感じた三善晃の「得体のしれない魅力」とは何か。その結論は私にとっては結局「得体のしれない」ものであり、この場ですぐ実態を解明できるということはない。だがその疑問に向かうために、どうしてそのような魅力を私は感じたのかを述べながら、今回の三善晃作品展がどのような意義を持っていたのかを考察していきたい。
「魅力がある」ことを感じたそもそもの発端は栗山先生の普段にもました熱心な指導ぶりからである。「島根のわらべ歌」は宇大のサマーコンサート・千葉大の北見特別演奏会でもそれぞれが一度本番を経験した曲であったが、先生の指導はなおも続いた。「であい」では音楽的・技術的指導とならんで、先生と三善晃氏との思い出話をよくおっしゃっていた。また、であいの本番ピアニストである寺嶋先生の雰囲気も、普段千葉大と一緒に演奏する時以上に熱があり、目の前でピアノ演奏(伴奏という言葉がふさわしいかがわからないほど素敵な旋律)の練習
をしていた。またこの演奏会のために行われた栗友会の合宿やその他の練習機会では、先輩や一般の合唱団員の方々もまた三善作品との自身の「出会い」と、それに対する思いを語っていた。
彼らを突き動かしているものは何か、を解明しようと自助努力もしてみた。三善晃著の随筆本「ヤマガラ日記」と「ぴあのふぉるて」をすこしつまんで読んでみた。論理的であり、時には時事的なことにたいする批判もあるが、全体的には温かみを感じる文章であった。人望の厚い三善晃の人物像が窺えた気がした。
本番後のレセプションでは非常に驚いた。新実徳英、西村朗、鈴木輝昭三氏など著名な作曲家が一堂に会し、このレセプションのために松下耕氏が曲を書き下ろしていた。
家に帰ってから読んだパンフレットにはこれまた多くの著名人が祝辞を寄せていた。多くの人が自分と三善作品との「出会い」を語っていた。
このように、三善晃とその作品は多くの人に愛され、そしてこの三善作品展は彼らの三善晃への愛を具現化できる格好の機会となっており、それが発起人や我々名もなき合唱団員含める演奏家のモチベーションとなっていたのだ。
三善晃にはその出会いを感謝され、愛される何らかの魅力を持っている。それが人間性なのか、作曲してきた音楽のすばらしさなのか、はたまた全くそれとは違うものなのか、私にはやはりわからない。これは人生の経験知のなさをまさに吐露しているということなのかもしれないが、(最後に個人的で幼稚な感想となってしまうが)裏を返せば今回の演奏会を通して、いまの自分にはわからない「非常に大きなものの存在」を知ったことはかなりの経験知となったことを信じて疑わない。
テナー1年もも
というのが、今月18・19日に東京オペラシティコンサートホールにて行われた「三善晃作品展」とその本番に向けて三善の作品を練習してきた私の感想を端的に表しているものである。
我々千葉大学合唱団は、常任指揮者である栗山文昭先生の受け持つ栗友会合唱団としてこの三善作品展に参加し、「混声・童声合唱とピアノのための『島根のわらべ歌』」
を同じく栗友会に入る宇都宮大学混声合唱団と、少年少女合唱団であるむさし野ジュニア合唱団"風"と演奏し、また「であい」を栗友会合同合唱団として大規模な合唱を演奏した。
話をもどそう。
ところで 私の感じた三善晃の「得体のしれない魅力」とは何か。その結論は私にとっては結局「得体のしれない」ものであり、この場ですぐ実態を解明できるということはない。だがその疑問に向かうために、どうしてそのような魅力を私は感じたのかを述べながら、今回の三善晃作品展がどのような意義を持っていたのかを考察していきたい。
「魅力がある」ことを感じたそもそもの発端は栗山先生の普段にもました熱心な指導ぶりからである。「島根のわらべ歌」は宇大のサマーコンサート・千葉大の北見特別演奏会でもそれぞれが一度本番を経験した曲であったが、先生の指導はなおも続いた。「であい」では音楽的・技術的指導とならんで、先生と三善晃氏との思い出話をよくおっしゃっていた。また、であいの本番ピアニストである寺嶋先生の雰囲気も、普段千葉大と一緒に演奏する時以上に熱があり、目の前でピアノ演奏(伴奏という言葉がふさわしいかがわからないほど素敵な旋律)の練習
をしていた。またこの演奏会のために行われた栗友会の合宿やその他の練習機会では、先輩や一般の合唱団員の方々もまた三善作品との自身の「出会い」と、それに対する思いを語っていた。
彼らを突き動かしているものは何か、を解明しようと自助努力もしてみた。三善晃著の随筆本「ヤマガラ日記」と「ぴあのふぉるて」をすこしつまんで読んでみた。論理的であり、時には時事的なことにたいする批判もあるが、全体的には温かみを感じる文章であった。人望の厚い三善晃の人物像が窺えた気がした。
本番後のレセプションでは非常に驚いた。新実徳英、西村朗、鈴木輝昭三氏など著名な作曲家が一堂に会し、このレセプションのために松下耕氏が曲を書き下ろしていた。
家に帰ってから読んだパンフレットにはこれまた多くの著名人が祝辞を寄せていた。多くの人が自分と三善作品との「出会い」を語っていた。
このように、三善晃とその作品は多くの人に愛され、そしてこの三善作品展は彼らの三善晃への愛を具現化できる格好の機会となっており、それが発起人や我々名もなき合唱団員含める演奏家のモチベーションとなっていたのだ。
三善晃にはその出会いを感謝され、愛される何らかの魅力を持っている。それが人間性なのか、作曲してきた音楽のすばらしさなのか、はたまた全くそれとは違うものなのか、私にはやはりわからない。これは人生の経験知のなさをまさに吐露しているということなのかもしれないが、(最後に個人的で幼稚な感想となってしまうが)裏を返せば今回の演奏会を通して、いまの自分にはわからない「非常に大きなものの存在」を知ったことはかなりの経験知となったことを信じて疑わない。
テナー1年もも
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